前回(⑪)は、転職を繰り返す青年が少年時代に刷り込まれた心のトラウマを乗り越えたという話をしました。今回も、その話の延長です。
心次第で見方は変わる
前回の話で、何を言いたかったのかといいますと、心のあり方次第で、他人を見る目は変わるということです。たとえば、サラリーマンの世界でも会社で仕事がうまくいかないとか、人間関係がうまくいかないということがしばしばあります。そういう時、「私はこんなに頑張っているのに、あの上司は、評価してくれない」とか、「あの上司はいつも無理な仕事ばかり私に押しつける」というように、つい私たちは仕事がうまくいかないその原因を相手に求めようとします。
果たしてそれは正しいのかということです。そういうときは、一歩踏みとどまって、そういうふうにしか見えない自分は、果たして正しいものの見方をしているのかと、考えてみる必要があります。もしかしたら問題は相手にあるのではなくて、自分にあるのではないかと考えてほしいのです。
仏教の言葉で「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。一つの水は四つに見えると書きます。どういうことかと言いますと、水というのは川のことなのですが、あの世の世界では同じ川なのに、見る人によって全部違いますよということを言っているのです。魚がその川を見ると自分の住処に見える。普通の人が見ると普通の川に見える。ところが、地獄の亡者が見ると、その川は血の池地獄に見える。あるいは熱い炎のような火の川に見える。ところが、天国に住んでいる菩薩とか天使が見るとその川は水晶の川やダイヤモンドのキラキラ輝いた川に見える。ということなのです。これを「一水四見」というのです。要するに、同じ川なのですが、見る人によってその川の見え方は全部違うのですよという考え方です。仏教の唯識派という派があるのですが、そこでこういう教えを説いています。
じつは、これは仏教ではあの世の話をしているのですが、前述の青年もその類なのです。父親が憎いという心で周りを見ると。欠点が目に付くのです。つまり彼は、子供のころ彼の父親をどう見ていたかというと、理想の父親であって欲しいっていう思いがあった。ところが理想の父親であって欲しいのに、浮気をしてしまった。そこで彼は苦しんだのだと思います。本当は理想の父親であって欲しいのに、浮気をして、自分の理想の父親ではなくなってしまった。こういう父親じゃダメだ、そういう「心の傾向性」が出来てしまった。そういう心の目で他人を見た時に、つい欠点が目に付くのです。仕事しか能のない上司だ、怒りっぽい上司だ、話題が低俗な上司だ。本当は理想的な上司であってほしいんだけど、低俗な話題しかしないとか。あるいは、重箱の隅を突っつく上司だとか。
このように、先ほどのおそば屋さんの話といい、この転職青年の話といい、特に父親との関係というのは、地域社会では肩書きが上位の人との関係で現れ、会社では上司との関係に現れることが多いのです。もし、目上の人や上司との関係がうまくいかない人がいたら、父親との関係を振り返って見るといいでしょう。父親との関係が非常にうまく円滑にいっている人は、上司や権威に反発するということはあまりないものです。また女性で言えば、母親との関係がうまくいっていない人は、会社で上司にあたる女性とうまくいかないというのも結構多いように思います。いずれにしても、原因は自分の心の傾向性にあるのだということです。
公憤と私憤
このことに関して思い出す方がいます。数年前、高齢者福祉関係のNPOで、ちょうど敬老の日に呼ばれて行って、話をしたことがあります。30分ほどだったのですが、シルバーの方が数十人集まっておられて、そこでシルバー向けに「和顔、愛語、慈眼」という話をしました。年をとったら「やわらかい笑顔と思いやりのある言葉と、そして優しい目が大事ですよ」と。そこで、話し終わって何か質問ありませんかと言ったら前に座っていた年輩の方が手を挙げて、「じつは、自分は、若い時から非常に正義感が強くて、社会的な不正、とくに汚職とか収賄とか、そういう社会的不正があると、それがどうしても許せない、もう居ても立ってもいられない」と。そういう性格ですから、戦前に、大変な経験をしたのです。
その方は、後で聞いたら85歳と言っていましたから戦前はもう大人だったのですね、その戦前の20歳代のころに、ちょっと社会に対して批判的なことを言ったために、いわゆる特高(特別高等警察)という思想を取り締まる警察に捕まって、刑務所で殴る、蹴る、の虐待を受け、片目失明して今も左目が見えないのです。それくらい世の中に不正があると許せなくて、ついカッとなる性格なのです。それで「最近は、それが高じて、妻にまで手が出てしまうのです、どうしたら良いでしょうか」という質問でした。
おそらく奥さんという方も、80歳近い相当年輩の方だと思うのですけが、その奥さんについ手が出て暴力を振るってしまう、どうしたらいいでしょうかという質問をされたのです。その時に私がお答えしたのが、「あなたは社会的不正を許せないと言っているけれども、じつは心の中に、私的な憤りがあるんじゃないんですか。同じ怒りでも、公憤というのと私憤というのがあるのです」という話をしました。公憤というのは公の憤りです。私憤というのは私的な憤り。あるいは公憤とは理性的な憤りであり、私憤とは感情の入った個人的な憤りと言ってもいいでしょう。
そこで私は、「あなたは正義だといって、社会の不正を糾さなきゃいけないと言っているけれども、じつは心の奥底に、私的な不満なり憤りが溜まっているんじゃないですか」といって、先ほどの、4回も転職した若い青年のことを話したのです。いつも上司とぶつかっていたという人が、じつは父親に対して憎しみを持っていたことに気がついて、それを解決したら自分の上司との問題も解決したというケースがあるのですという話を、その方にしてあげたのです。そうしたら、その話を聞き終わった途端にその方が、大きな声で「わかりました!」と叫んだのです。「じつは、私も父親を殺したいほど憎んできました。父親を殺したいと思ってきました」。それで、大学を出たらともかく父親から離れたくて自分でアメリカへ行って留学した。それほど父親を憎んでいた。
「これまで、自分はそういう社会的不正に対する憤りを、正義だと思っていたけれど、自分の方に問題があると、今気がつきました。本当に今気づきました」ということを、みんなの前で大きな声で話してくれました。85歳の男性だったのですが、この方も自分の心の傾向性というものに遅まきながら気がついたのです。つまり、社会的不正を糾さなきゃいけないという思いがあったのだけれども、じつは心の中では父親を殺したいというほど憎んでいた。そういう心の傾向性で見ると、世の中が全部偏って見えるということです。
一水四見
まさに一水四見です。
会社の問題、家庭の問題、あるいは地域における人間関係の問題などいろいろありますが、もしかしたら自分の心の傾向性に原因があるのではないか、と振り返って見れば案外解決の糸口が発見できるのではないかと思います。
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